松原のアトリエ近くで。富岡多惠子と山村房子(山村昌明氏撮影、山村房子氏提供)

 終わらないサロン

 池田満寿夫の助手であった画家、山村昌明が撮ったパーティーのモノクロ写真が残されていた。ビール瓶と吸殻だらけの灰皿と店屋物の笊蕎麦が真ん中にあって、周りには澁澤龍彦や矢川澄子、野中ユリ、山田美年子、土方巽、加納光於、加藤郁乎ら九人の男女が寝転がっている。おかっぱ頭のタエコはストライプのシャツにコットンパンツ姿で煙草を吹かし、腰にマスオの左脚がかかっている。
「話しこむ人もいれば歌う人もいる。床に寝ちゃう人もいる。そのまま雑魚寝です。飲み続けて朝までというのも普通でしたね。女性だけ集まってしゃべるとか、男どもはただ酒飲んでいるとか、そういう女性・男性に分かれるようなことはなくて、ただ好きなように酒を飲んでしゃべって踊って、ゴロゴロしていたわけです。
 その間、池田・富岡夫妻というのは、個性がまったく違っていても、共通したところがあって、それは思ったことをすぐ口に出すという点でした。それに加えて、異常なまでにサービス精神があった。今の日本では人が集まっても黙っていることが多いですが、当時のふたりはそういうのが嫌いで、とにかくしゃべって話題を絶やさない。それはサービス精神というより、人間性のあり方かもしれません。僕はこの夫婦の飲み方がいいなと思って、一時は影響を受けていましたね。それで話がいっこうに終わらない」
  雑魚寝をして夜が明けるとまたビールの栓が抜かれ、蕎麦をとったりして、再び宴会になることがよくあった。「仕事だから」と言う者は誰もいない。ある朝、池田が作った味噌汁にたくさんの具が入っているのを見て、澁澤龍彦が「こんなものは味噌汁じゃない。具は一つか二つだ」と文句を言い、池田が「なにっ、信州ではいろんな具をいれるんだ」と応えて、「どちらが本物の味噌汁か」と議論がはじまった。
「池田さんは澁澤さんに『ヘンリー・ミラーとジョルジュ・バタイユとどちらがえらいか』なんて論争をふっかけたり、そういうばかばかしいことをやっていましたね。これも一種のインファンティリズムです。澁澤龍彦はサド裁判(澁澤が翻訳したマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』が猥褻文書にあたるとして起訴され、のちに有罪となる)で注目されだして、何本も連載を持っていた時期ですが、決して『忙しい』とは言わずにつきあい、交友を楽しんでいました。池田満寿夫のほうも、それこそ寝ないで仕事をしてましたね。版画だけではなくて、注文原稿も書いていた。二日酔いのままで原稿書くなんて信じられないけれど、そういう池田さんの異様なエネルギーに、多惠子さんは惹かれていたのかとも思う。彼女のほうは詩人の気質もあって、ある程度の余裕を大切にしていました」
 巖谷は、パーティーは一種のサロンだったという。
「人の集まるところで偶然の出会いが起こる。それが本来の人間社会ですが、60年代の前半にはあちこちにそういう場所が生まれていたんですね。澁澤龍彦の書斎でも、土方巽の稽古場でもそれがあった。自然に人が集まってきて、出会いが生まれ、友人関係がどんどんひろがり、ときにはデモも起こる。今の日本から思うと、それは自由で活発な創造の源泉で、貴重な体験でもあったのです」
 松原のアトリエのパーティーは、アメリカでキング牧師が指導する人種差別反対運動が広がり、ケネディ大統領が暗殺された年から、マスオとタエコがニューヨークへ発つ65年7月まで、2年続くのであった。 

※次回は3月1日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館)                

 

 

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