ケイト・ミレットの暮らしたアトリエ

 フェミニズム運動の活動家・理論家として名高いケイト・ミレットは、富岡よりひとつ年上の34年生まれ。オックスフォード大学院を成績優秀で出たものの、アメリカでは希望する大学教員の職には就けず、61年に来日し、早稲田大学で英語を教えながらアーティストを目指していた。
 彼女が70年に出版した『性の政治学』には、73年に出た日本語版のためにだけ書かれた序文がある。そこでケイトは、日本の家父長制社会のなかで女性の創作者がいかに抑圧されているかを指摘し、告発する。女は結婚すれば家族に搾取され、自身の創作活動をやめていくことが通例になっている日本の差別構造への強い怒り。だが、〈一つだけ全く非類型的な場合を知りました。それは吉村二三生の最初の妻芳子でした〉とあり、そこから吉村夫妻への賛辞が続く。
 その序文によると、ケイト・ミレットの視点は日本滞在中の2年間に芽生え、63年に帰国して以降にアメリカ社会の差別の実態の観察へと発展した。
「吉村夫妻はアトリエを探していたケイトに家を貸し、しばらく隣の小さな家のほうに移りました。62年に吉村二三生が下見のために先に渡米したので、ケイトと芳子の女性ふたりが残ります。本当に悲劇的なことですが、そのすぐあとに芳子が末期の癌だとわかり、亡くなってしまう。まだ30歳そこそこでした。僕は葬儀に参列したとき、遺骨になった芳子の前で烈しく悲嘆にくれるケイトを見ています。彼女はのちに帰国してニューヨークで吉村二三生と結婚することになりますが、バイセクシュアルを自認してもいたわけで、芳子を、二三生を、夫婦を愛していたのだと思います。彼女は芳子が絵を描かなくなっていたことも、若くして癌にかかって亡くなったことまでも日本のミソジニー社会のせいだろうと書いています。
 フェミニズム運動は60年代からのアメリカ公民権運動の重要な部分を占めたもので、『性の政治学』はその思想の核になるものでした。世界的なベストセラーになったこの大きな本が日本ではあまり売れず、注目されないできたことも、今につながる日本の社会を映していて特徴的です」
 63年2月に芳子が亡くなると、巖谷は彼女のいた小さいほうの家で祖母の吉村雪と暮らすことになった。4月末、ケイト・ミレットがニューヨークへ戻り、新しいアトリエの借家人がやってきた。マスオとタエコである。
「そのとき、僕が応対したんです。日本橋画廊の紹介ということでした。当時の池田満寿夫はその画廊の専属で、ここを借りに来たのは瀧口修造が勧めたからだと聞いています」
 当時、瀧口修造は60歳、日本の近代シュルレアリスムの理論的支柱であり、美術評論家として、詩人として知られていた。巖谷はケイト・ミレットを通じて瀧口と知りあい、シュルレアリスムの思想を受けつぐことになる。
「瀧口修造はケイト・ミレットが帰国する前に京橋の南画廊で個展を開いたとき、リーフレットに美しい英語の序文を贈っていました。敗戦後にアートに目覚め、自由と解放を求めていた日本の若い女性たちを導き、自分の企画する展覧会でデビューさせていたのも瀧口さんで、宮脇愛子や草間彌生をはじめ、岡上淑子、野中ユリ、合田佐和子などもそうです。ケイト・ミレットも含めて、瀧口修造の紹介した若い女性アーティストたちには、共通したところもありますね。そういえば富岡多惠子さんも、敗戦後に民主主義が入ってきたとき十歳で物心ついてますから、一種の解放を体験していた世代です」