大学で出会った親友の曽野綾子さんは、ある時、戦前に体験したこんな話をしてくれました。授業中にいきなり憲兵がドヤドヤと教室に入ってきて、教壇に立っていたシスターを押しのけ、「西洋の宗教など学ぶことはない」と言ったのだとか。あれは本当に怖かった、と。

ところが憲兵たちが退出すると、シスターは何ごともなかったかのように神様の話をお続けになったというのです。

それを聞いて、私は大変な感銘を受けました。シスターは神様という信じる存在を持っているから、権力や暴力に惑うことがないのだと確信したのです。

それを機に洗礼を受けることを決意した私は、大学院に進んで勉強を続けながらフランスやイタリアに渡り、誰とも言葉を交わさない「絶対の沈黙」という修行を8年、瞑想状態で過ごす「頭の沈黙」という修行を2年続けました。

こうして他者の幸せを願うために私欲を消し、念を払う精神を養ったわけですが、かといって宗教者が特別な存在とも思いません。教会に行かなくても、お寺に行かなくても、生きている人はみな修行者。

人生は修行の場です。誰もが等しく苦しいのですから、「運命に翻弄されている」などと不安の虜になることなく現実をしかと受け止め、かくなるうえはと覚悟を決めれば、その気迫に悪運は尻尾を巻いて逃げていくのではないでしょうか。