不機嫌こそがエナジーの根源
富岡の写真映りがよくなかったのは、ポーズをとったり、表情を作ったりをしなかったからだろう。規範に縛られて愛嬌や媚びを身体化することなく育った作家は、自分の感情を繕う術を知らず、平気で無愛想でいることができたのである。
富岡が晩年まで交流し、年譜作りを託すほどに無条件の信頼を寄せていた編集者で、詩人の八木忠栄が追悼文に書いていた。
〈「不機嫌」こそ、富岡多惠子が芸術や詩と闘い、小説と闘うエナジーの根源になったものではないか。しかも「素手」の闘いだった〉(「現代詩手帖」2023年7月号)
作家より6歳年下の八木は脊髄小脳変性症を患い、2015年から杖に頼る生活を送っている。ひとに会うのは厳しいが、表情が見えたほうが言葉を尽くせるからとZoomでの取材を提案してくれた。
「富岡さんは、嘘笑いや、愛想笑いをするひとではなかった。自分で言ってましたね。高いトーンで『はい、富岡です』と言えば明るくなるけれど、自分はいつも低い声で『はい、富岡です』と電話をとる、と。その不機嫌さは会ったときから生涯変わりませんでした。それが素晴らしいと思った。
僕は、富岡さんに田村隆一や吉本隆明、小沢昭一といった方々との連続対談(『虚構への道行き』1976年)も、お願いしました。言葉と芸への関心からですが、富岡さんにこのひとをぶつけたらどうなるか? という興味もありました。富岡さんは対談しても全然嬉しそうじゃなくて、あっち向いたり身体を動かしたり、嫌々出されたって感じで出てきましたね。態度が悪かったんですよ、態度が。でも、しゃべる内容は素晴らしい。反応が速くて、しかも幅が広かった。幅が広くて、飛躍じゃなくて、足を土にずっとつけてるんだもん。ひとをよく知ってるんですね。本当に頭のキレるひとで、サービス精神もあったから、対談しても丁々発止で本当に面白い。だから、ひとりで書いていく小説はすごく苦労したんでしょうね」
八木が富岡に会ったのは、大学卒業後、思潮社に入社して「現代詩手帖」の編集長になったころである。同誌の66年10月号冒頭の長編詩「はじめてのうた」が富岡からはじめてもらった詩で、翌67年1月号から11月まで、富岡初の連載エッセイ「ニホン・ニホン人」を企画し、担当した。ちょうど富岡がヨーロッパ経由でニューヨークから戻った時期である。
「富岡さんが会社に来たのが、会った最初だと思います。そこから僕が原稿をもらうために頻繁に家に行ったわけです。松原のアトリエにも行ったし、若林のマンションにも行きました。池田満寿夫とのことは知っていましたが、不機嫌になるからあまり言いませんでした。そのへんの事情は富岡さんが詩に書いてますよね。『ニューヨークではなにもすることがない』や、『だからどうなんだというからいくのだといった』(「現代詩手帖」1968年7月号)、そのへんが葛藤ですよね。
あるとき、富岡さんと会うと、知らない男が脇にいるの。最初は紹介してくれないから、誰だろうなぁ、富岡さんは若い男が大好きだからなぁと思っていて。その後、仕事で行くとその男がいて、きっと誰かが紹介してくれたんでしょうね、菅さんだったんですね。でも、彼は仕事の話がはじまると姿を消すの。結婚してからも、同席したことはないです。つまり、妻の仕事場に夫はいない。それは菅さん、徹底していましたね」