舞台「結婚記念日」パンフレット
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

富岡多惠子は天才です

 1971年5月、35歳の富岡多惠子ははじめての小説「丘に向ってひとは並ぶ」を「中央公論」に発表し、「婦人公論」の特集「年下の男時代」にはエッセイを寄稿した。

〈年上の女と年下の男という組合せがすばらしいとしたらその第一番の原因は、年上の男と年下の女という組合せをつくってきた論理が内包する、支配被支配の関係をもっていないことではないだろうか〉(「婦人公論」1971年6月号)
  
 54年生まれの中川浩子は、新居浜西高校3年の昼休み、図書室で手にとった分厚い「婦人公論」でこのエッセイを発見し、一読惚れした。以来、19歳年上の富岡作品を夢中で読み、その姿を追いかけてきたファンである。いや、マニアだろう。
 現在、中川は71歳、故郷、愛媛の新居浜で赤ちゃんを連れて住みついた母娘猫と暮らしている。
「あのエッセイは内容もさることながら、今まで読んだことがない文章でした。当時人気のあった伊丹十三の『女たちよ!』なんかは誰が書いても成り立つと思ったけれど、富岡さんの文章には生まれてはじめてグッときたんです。私には、大阪弁へのアレルギーがなかったからかもしれません。新聞広告で富岡さんの小説が掲載されていると知って、すぐに市内の書店で『中央公論』を買いました。けったいな小説だと思いましたが、全部読もうと思って読みました。それから富岡さんの名前を見つけると短い文章や記事なら雑誌を立ち読みしたりするようになりました。一瞬でファンになったんです。幼児期から市川雷蔵のファンであった私の2人目のアイドルでした」
 夏、予備校の夏期講習を受講するために上京すると、早稲田や神保町の本屋をまわり、地元の本屋では手に入らなかった富岡の単行本を探した。詩集も翻訳本も、次々出版されていた『厭芸術浮世草紙』、『ニホン・ニホン人』、『青春絶望音頭』、『行為と芸術』などのエッセイ集も片っ端から購入した。中川はこれまでに富岡のすべての単行本、文庫本を買って読み、作家が登場する雑誌や新聞には目を通し、富岡脚本の映画も舞台も見て、その作品に出演した俳優の動向にまで気を配ってきたのである。
「全集だけは高かったので、図書館で借りて読みましたけれど。現代美術家の高松次郎や、作曲家の一柳慧(とし)、オノ・ヨーコの元夫ですね、そうした表現者を書いた『行為と芸術』なんて、とりあげているひとが何十年も早いでしょ。富岡多惠子は天才です」
 72年春、早稲田大学に入学し、東武東上線沿線のアパートに暮らしはじめると、中川の富岡熱はますます高じていった。翌年3月に「海」で詩人のはじめての長編小説「植物祭」の連載がスタートしたときは、毎月、待ちかねて発売日前日の6日夕方に入荷する池袋駅地下の小さな書店までわざわざ買いに出かけたほどである。