小説にも詩が流れている

「現代詩手帖」読者にも富岡人気は高く、熱心なファンも多かった。
「特に女性がね。代弁してもらっているって感じがあったんじゃないですか。僕はね、当時、思潮社の社長に言われたの。『富岡さんと白石さんと吉原幸子、この3人はすごいんですよ。みんな違うけど、みんなすごい。君はいきなりすごい女性詩人3人と仕事をしてるんだよ』って。みんな、頭がよくて、キレました。でも、それを表に出さないんだよ。表に出したら嫌になるでしょ。やっぱり、富岡さんが頭のよさを表に出さないで、後ろにおいてやってきたから、僕はつきあえたの。僕はうまいこと言うのはダメだからね。本音でつきあえるひとでした」
 70年7月、富岡が思潮社から刊行した詩集には『厭芸術反古草紙』というタイトルがついている。〈わたしはいま、ことばの国の役立たずのやからの謀反に味方したのを裏切ってあの土地へいくか、或はあの土地をもとめるふりをして連中といっしょに謀反を行うか、どっちかをはっきりさせねばならぬハメになっている〉とあり、これが最後の詩集であった。2カ月前には詩集と対のような『厭芸術浮世草紙』と名付けたエッセイ集を中央公論社から出していて、その帯には〈ナグサミものとしての芸術を拒み、現実そのものに迫ろうとする〉とある。ここまでは詩人という肩書がついていた。それから1年たたずして、はじめての小説を書き上げ、詩から小説へ「溝跨ぎ」したのである。

〈小説への「溝」を前にして、わたしにあったのは、語るよりも認識の欲望だった。生存している状態の深さを認識したいということだった〉(『表現の風景』1985年)


 八木は、詩を依頼しても断られるようになっていた。
「いくら言葉を重ねても応じてもらえることはなく、たまらずに面と向かって『小説ばかりを書いていると、色気がなくなりますよ』と言ったけれど、富岡さんは答えなかった。ただ詩が書けなくなったわけじゃなくて、『こんな詩はいくらでも書けるんだ』ってことですね。書かなくなったんですね。もう小説のほうにいったんでしょうね。小説は、好きな小説も好きでない小説もありますけども、やっぱり、すごい才能だと思いました。『丘に向ってひとは並ぶ』って、あれは本当に富岡さんの本質的なところですからね。でも、詩をやめても、彼女の小説には詩が流れていますよ」
 富岡は多田道太郎との対談で、なぜ詩作をやめて小説へいったのかとさまざまなところで質問され、全部いいかげんに答えてきたが、ひとつ言えることとして説明する。

〈詩人やからいうことでやっぱり自由失いたくないから。(中略)ただ、その芸の洗練だけをめざしていくという風なところで自分を縛っていくのいややしね。もっとのらりくらりしてなんにもせんと生きていきたいと思っているのに、やっぱり詩人としてのかっこよさとか名声とか、お褒めにあずかるとかそんなくだらないことより自由のほうが大事ですよ〉(『ひとが生きている間』1974年)