「結婚記念日」パンフレットに掲載された高松次郎との対談

全方位に広がる活躍

 73年、八木は富岡マニアの中川がサイン会に駆けつけた『富岡多恵子詩集』を企画し、編集する。すでに思潮社からは2冊の『富岡多恵子詩集』があったが、『返禮』、『カリスマのカシの木』、『物語の明くる日』、『女友達』『厭芸術反古草紙』、未刊詩と、これまでの詩作を全収録した作品集だった。装丁は、単行本『丘に向ってひとは並ぶ』に続き、富岡がシンパと公言し、夫の菅が「細くて、インテリっぽくて、アーティストで。多惠子さんのドンピシャのタイプ」と見抜いた高松次郎。付録としてそれぞれの詩集のあとがきやノートが再録されており、この時点で富岡多惠子の仕事を眺望する一冊となっている。
 あとがきには、こうある。

〈いいかえれば、わたしは詩という男に出会い、その男に惚れ、別れたくても未練があって別れられず、ずい分長い間いっしょにいたのであるが、やっとこさ、愛想をつかして別れたのである。/このことは、いわば芸術への執着よりも、わたしが生きていく上での本能的な必要に従ったことである〉(『富岡多恵子詩集』1973年)

 文章は、八木がいなければこういう本はあらわれなかったし、今後もこんな機会はないと思われる、と結ばれていた。
 初の小説を発表してから、富岡の短編は「イバラの燃える音」、「仕かけのある静物」、「窓の向うに動物が走る」が3期続けて芥川賞候補となっていた。74年4月には『植物祭』で第14回田村俊子賞を、同じ年の秋には『冥途の家族』により第13回女流文学賞を、続けて受賞する。
 小説家としての評価を固めつつあるときも、この新人作家は対談や新聞や雑誌のインタビュー、エッセイの仕事にひっぱりだこであった。同じ35年生まれのアラン・ドロンの日本一のファンを自称して、大きなポスターを飾った仕事部屋での写真を雑誌に提供、人気者だった野口五郎と対談するなどミーハーぶりとサービス精神を存分に発揮。「結婚記念日」のパンフレットで対談した高松次郎が「なにを見ても富岡さんが出てる‥‥」と話すほど多忙で、日本テレビの「遠くへ行きたい」や、NHK文芸劇場などテレビにも出演した。
 中川浩子はどれもこれも読み、テレビだけは見逃しているもののラジオで富岡がアラン・ドロンを賛美するのを聴いている。それだけではなく、彼女は富岡の夫、菅木志雄の個展が開かれると知るやそこにも出かけて行くのであった。
「そのころ、菅さんは日本橋にあった田村画廊というところでよく個展をされていたんですね。菅さんがスーツ姿で椅子に座っていらっしゃると、カッコいいなぁと横目で見ながら作品を見て帰りました。いらっしゃらないとき、画廊のオーナーに『富岡さんのファンなので、来たんですよ』と言ったことがありました。画廊主は、『富岡さんに、あんたらええなぁ、こんなものを作ってたらいいんやからと、言われました』っておっしゃってました。作品を勧められたんですが、20万円だったので買えないし、普通の家には置けない。でも、家に置いてじっと眺めていると菅さんの考えてることがわかるよ、と言われましたね」
 詩からエッセイ、小説、対談、映画のシナリオ、舞台の脚本と活躍の場を全方位に広げていた富岡多惠子は、41歳で歌手になるのである。

※次回は4月1日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館)                

 

 

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