イラスト:川原瑞丸
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は「正月を迎えに」。子どものころ、年末には母親と一緒にしっかり準備をしたうえで、年始を迎えていたというスーさん。その後、実家を出て気がついたことは――

子どものころの年末年始は

昨年末から年初までの私はワルだった。稀代のワルだ。だって、正月を迎えにいかなかったんだから。

いまとなっては不真面目極まりない独身中年女に過ぎないが、専業主婦だった母の愛情をたっぷり浴びて育った私は、正月を大切にする律儀な娘だった。

母は毎年必ず、真剣に正月を迎えにいった。26日あたりから徹底的な大掃除を始め、冬休みに入った私もヘトヘトになるまで手伝わされた。母はいつのまにかお米屋さんにお餅を注文しており、家の玄関や自家用車につける正月飾りも準備した。私はデパートやアメ横でお正月用の食材を購入するのに同行した。

30日になると、母は和室の戸棚からうやうやしく漆塗りの三段重を取り出す。おせち料理は当然手作りで、くちなしの花から色をとって栗きんとんの餡を作った年もあった。かなり手間がかかり、翌年からは出来合いの栗きんとんを購入していたけれど、たいていは手作りで通した。私はりんご寒天を作る係。いま考えると、娘に正月という伝統行事を経験させてあげたいと願う親心だったと思う。

31日はおせちをお重に詰め、夕方にお風呂に入り、『紅白歌合戦』を観ながら夕飯を食べ、『ゆく年くる年』が始まる前に急いで年越し蕎麦をすすった。

元旦は普段よりきちんとした格好をしないと叱られた。襟のついたブラウスを着て、自室からダイニングに降りていく。テーブルにはすでにところ狭しとご馳走が並べられており、父は料理に箸をつけながら新聞を読んでいる。私は大急ぎで玄関の郵便受けめがけて走った。自営業を営む父宛てがほとんどだったが、辞書ほどの厚みがある年賀状の束を胸に抱えてダイニングへ戻る高揚感をまだ覚えている。新年の挨拶をし、おせちと尾頭付きの鯛とお雑煮を食べ、お年玉をもらい、膨れたお腹で正月のお笑い番組を観る。いつの間にか、リビングのソファでウトウトと眠りに落ちる。子どものころは、そんな昭和らしい年末年始を過ごしてきた。正月は自動的にそうなるものだとも思っていた。