学者というより、優秀なプロモーター

大坂、京都で学んだのちに宝暦6年(1756年)には江戸に下り、本草学者の田村藍水に弟子入りし、儒学の総本家、林家にも入門しました。

ただし、当時の学問の基礎言語である漢文の読解力はたいしたことが無かった、とする見方もあります。それどころか、実はオランダ語の方もはかばかしくなかったようです。

才気煥発タイプには言語の習得は向いてない、というのは、箕作阮甫と勝海舟のエピソードではありませんが、あるあるなのかもしれません。

宝暦7年(1757年)、日本最初の薬品会(薬種・物産を展示する会)を発案し、その後も江戸で何度も物産会を開催しました。やっぱり学者というより、本質的には優秀なプロモーターなんですかね。