スタートアップ的な活動へ
ただし触れ込みはあくまで、新進の本草学者。その名が世間で知られるようになると、高松藩は彼の抱え込みを目論みます。
でも源内は「おれの望みはもっと大きい」と行動したため、やがて両者の関係はこじれることに。これが原因で、彼は幕府や他の雄藩への仕官が不可能になりました。
物産博覧会の開催が回を重ねるにつれ、彼の知名度は上がって幕府老中の田沼意次にも知られるようになり、杉田玄白や中川淳庵ら一流の学者とも交遊を持つようになりました。
明和年間になると、ベンチャーというかスタートアップ的な活動が盛んになります。
たとえば秩父や秋田では鉱山開発を行いました。秩父の開発については、既にドラマでも放送されましたが、そこで石綿を発見し、炭焼や通船工事の指導も行っています。
秋田藩士の小田野直武に蘭画の技法を伝えた(小田野は『解体新書』の図を描き、秋田蘭画を形成した)のもこの頃です。