14年ぶりに日本へ

1971年秋、私と母は日本帰国を果たした。母はその前にも一度日本に戻っていた時期があったが、私が日本の土を踏むのは14年ぶりである。空路の移動とはいえ、いまのように直行便はない。サンパウロからリオデジャネイロ、そしてリマ、ロサンゼルス、アンカレッジと経由して日本に着く。48時間の長旅だ。

全国を巡業中の兄貴は東京にいなかったため、羽田空港には兄貴の運転手が迎えに来てくれた。そこで美津子さんの父、倍賞美悦(みえつ)さんにも初めて挨拶をした。都電の運転手をつとめていた美悦さんは当時、芸能界で活躍する千恵子さん、美津子さんの仕事を裏方として支えていたようだった。

倍賞美津子(左) アントニオ猪木(右)
倍賞美津子さんとの婚約時(写真提供:講談社)

車窓から見る街並みは、大きく変貌していた。1960年代に著しい経済成長を遂げた日本の首都・東京は交通量も激増しており、故郷に戻ってきたというよりも、まったく別の国にやってきたような錯覚さえ感じられた。

取り急ぎ、私たちが向かったのはかつて兄貴がダイアナさんと暮らしていた野毛の一軒家である。兄貴は練馬にある倍賞美津子さんの家に居候状態で、しばらくは空き家になっているこの家を使ってくれという。

家のなかに入ってみると、GE(ゼネラル・エレクトリック)製の洗濯機や冷蔵庫が備え付けられており、あらゆる場所にアメリカ人であるダイアナさんの感覚に合わせたカスタマイズが施されていた。これだと、美津子さんも暮らしにくかったに違いない。

その後、結婚式を控えた美津子さんにも挨拶した。売れっ子女優である美津子さんはいたって気さくな人で、私を「啓ちゃん」と呼び、どんな人に対しても壁を作らない天性の社交性を持ち合わせていた。

「引っ込み思案な兄貴だが、この人とならうまくいきそうだ」――私は初対面のときからそんな予感を抱いていた。