検校制度の成り立ち
鎌倉時代中期に城一という平家琵琶(平曲)奏者がいました。藤原行長(信濃前司)と協力して『平家物語』を創作し、初めて語ったのが生仏<しょうぶつ>という人。
この生仏の孫弟子が城一です。
彼は世に大いに『平家物語』を広めました。それでこの人を”『平家物語』の中興の祖”といいます。平曲の弟子に城玄と如一の二人があり、城玄の系統を八坂流、如一の系統を一方<いちかた>流といいます。
目の不自由な人の多くは「城*」もしくは「*一」と名乗ることが多いのですが、それは城一に由来します。
如一の弟子が明石覚一です。足利将軍家の血縁といいますが、同時代資料ではないので、ぼくは疑わしいと思います。
彼がのちの『平家物語』のスタンダードともいうべき「覚一本」をまとめました。また彼は自分の屋敷に「当道座」を設立して、明石検校を名乗り、江戸時代まで続く検校制度を確立しました。