部屋子として中村屋に

ーー2005年5月、部屋子として中村屋に迎え入れられる。部屋子になると、幹部俳優と楽屋を共にして、役者としての心得、舞台に出る準備から芸事まで指導を受け、学ぶ。鶴松さんの部屋子披露は、同年3月から歌舞伎座で3ヵ月行われた18代目中村勘三郎襲名公演のときだった。以降、勘三郎さんの薫陶を本格的に受け始める。

5歳で歌舞伎を始め、最初はお客さんがいっぱい拍手してくれて、注目されるのがうれしいというだけでした。それが次第に楽しさだけでなく難しさも感じるようになりました。歌舞伎のスケールの大きさ、非現実的なところ、道具の派手さなどに魅かれていました。でもそれ以上に、「中村勘三郎」という人が大好きで、この人にいろいろ教わりたい、この人の下でいろいろやりたいという気持ちの方が強くなったのです。何より勘三郎さんの人間性。裏表がなく喜怒哀楽がすごい人でした。ただ、怒る時でも、何か1ついいところも指摘する。「いつもいいんだから。でも今回駄目だよ」とか「いつもはあなた素敵なんだから」とか。僕もいっぱい怒られましたが、頭ごなしに怒るのではなく愛情のある怒り方でした。

2007年12月歌舞伎座で『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)~筆屋幸兵衛(ふでやこうべい)~』の幸兵衛娘お雪をつとめた時でした。声変わりで苦しい時期でしたが、勘三郎さんには「声が出なくたって関係ない。心で芝居をすれば伝わるんだ。何をするにも心だから」と、厳しく教えられました。舞台の上でもダメ出しがありました。そして、千穐楽前のクリスマスに手紙をいただきました。「最初は怒ったけれど、少しずつよくなった。心で芝居をするということがわかってくれたと思う」と。

勘三郎さんの長男・勘九郎さんや次男・七之助さんは「お父さんに褒められることが一番のモチベーションだった」とよく言いますが、僕も全く同じです。勘三郎さんに褒められるために歌舞伎をやってきました。褒められたことは明確に覚えています。2010年10月の平成中村座で『紅葉狩』(もみじがり)の山神(さんじん)を演じた時、舞台から袖に引っ込んだ瞬間、勘三郎さんがいきなり僕のところに来て「すごくよかったよ」とがっちり握手してくれたことは忘れられません。

『野田版 鼠小僧』のワンシーン
写真提供:松竹株式会社

「常に心が動いていていなければならない」というのは、勘三郎さんがずっと言っていたことです。歌舞伎には「型」があり、型の通りにやるのが全てですが、型には理由がある。それが「心」なのです。心を突き詰めずに型だけやっても伝わらない。心があるから型があるということです。なぜその型があるのかと心を考えることは、古典はもちろん、『鼠小僧』のような新作も同じです。中村屋に入らなければ分からなかったかもしれません。

常にリアリティも大切にする人でした。今年の2月の歌舞伎座、猿若祭での『人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』のことです。長兵衛を演じる勘九郎さんが「今夜は誰も通りやがらねえな」という台詞を言った瞬間、2階席で赤ちゃんが泣いたんです。その時とっさに勘九郎さんが「赤子しか泣かねえや」と言ったんです。それも「赤ちゃん」ではなく「赤子」と。役が自分に入っているからこそできるアドリブだったな、と勘九郎さん自身も感心していました。勘三郎さんの哲学がしっかり引き継がれているんだなと思います。