「朝日新聞」の文芸時評に名前が
初対面のときは、富岡の「白光」が発表されたばかりだった。富岡の大ファンだった親友から掲載誌の「新潮」をたまたま借りて読んでいた松井は、武智が席を立った折、「盛岡にお住まいなんですか?」と作家に声をかけてみた。すると富岡は「なんで? 今は住んでないけど、なんでそんなこと聞きはるの?」と訊ね、松井は「『白光』を読ませていただいたので」と答えた。「白光」は富岡の夫、菅木志雄の故郷で、夫妻が夏を過ごす山荘がある盛岡周辺が舞台となっていた。
松井は、自ら願い出て武智と富岡の対談に立ち合った。富岡は松井を自分のファンと思って胸襟を開いたようだが、松井は親友に富岡のことを話してあげたくて会えるチャンスをつくったのだ。ところが対談を聞き、意見をはさんだりするうちに、松井のほうもすっかり富岡に親しみを覚えるようになっていく。
それは、たとえば大阪出身の武智が「僕は他人と仲よくするために、わざと喧嘩を売ってるつもりだったんだけれど、それがなかなか理解してもらえない」と言うと、富岡は「私は大阪の人間やからようわかります。つまり、八右衛門みたいなもんですよね。ああいうのは大阪人じゃないとわからないですよね」と、近松の「冥途の飛脚」に出てくる悪党の名前を出したりするからだった。
「私は京都生まれですが、母親が大阪出身なので、その話がすぐピンと来たんですね。富岡さんは最初から打ち解けやすい、話しやすい方でした」
そのとき富岡は52歳、53年生まれの松井は33歳だった。
3度の対談を終えたあとに膵臓ガンが見つかった武智は、88年7月に75歳で没した。師を失い道を歩いていてもふいに涙があふれてしまうほど心身が弱っていた松井は、9月27日の「朝日新聞」夕刊に載った文芸時評に自分の名前を見つけて度肝を抜かれた。そこに師が危篤状態のとき依頼され、学会誌「歌舞伎--研究と批評」に書いた浄瑠璃論が評されていたのである。評者は富岡多惠子。
「主に純文学を対象としたあの欄に歌舞伎の研究誌が取り上げられるなんて、異常なことですよね。私にとってものを書くことでしか自分を支えられないという思いで書いたものでした。あとで富岡さんも、『なんでこんなものを取りあげたんだと言われた』とおっしゃっていましたが、不安定な私を見守ってくださっていたんでしょう。嬉しいような怖いような、不思議な感情を持ったことを覚えています」