文壇での「事件」
作家が「朝日新聞」の文芸時評の評者だったのは、その2年前の1988年。2年の依頼を固辞して「1年だけなら」と引き受けた仕事だが、そこでの出来事は疲弊することが多かったのではないか。書く度に何らかの反響があり、中盤には「事件」も起こっている。
88年6月の時評で富岡は、第1回三島由紀夫賞を受賞した高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』を取り上げて、大江健三郎や江藤淳らの選評の内容を皮肉ったうえで、作品を内輪の言語で書かれた小説と批判した。
〈この手の、良くいえば「親密な」サークルだけに通じる符号性をアテにした言葉で書かれる文章は、いかに自由な口語体に見えはしても、音声、意味ともに周縁にひろがろうとする言葉の機能を自閉させる〉(「朝日新聞」1988年6月27日)
約2週間後、高橋源一郎の「『内輪』の言葉を喋る者は誰か――富岡多恵子さんへ」が、「朝日新聞」に大きく掲載された。高橋は「内輪」の言葉の多用に批判的意味をもたせた、純文学もまた内輪の言葉で語られてきた、と続けた。
〈確かに、その「小説」に使われている言葉は、僕の使う言葉ほど「内輪」でも「自閉的」でもないかもしれない、あるいはずっと豊饒(ほうじょう)なのかもしれない。だが、僕にとっては、その傲岸(ごうがん)なナイーヴさ以上に「内輪」なものは存在しないのです〉(「朝日新聞」同7月14日)
この出来事は文壇でも富岡ファンの間でも話題になったが、富岡がどう感じたかは書いたものも語ったものも残っていない。夫の菅木志雄は、反論が載った日、「大したことじゃないよ」と妻に声をかけたというが、気分の浮き沈みが激しく、躁鬱傾向があった作家にとっては強いストレスで、「味方がいない」と感じる遠因になった可能性はある。
文芸時評と同時並行で「群像」に連載していた『逆髪』が90年春に刊行されたものの、『波うつ土地』のような反響や期待した以上の評価がなかったことも、作家の孤立感に拍車をかけたようだ。松井に吐露している。
「これでやっと小説らしい小説を書けたと思ってたんやけれど、みんなわからないと言うたんがショックやった」
松井が「富岡さんの小説って、小説というよりも詩と評論の合体ですよね」と言うと、「今は小説が評論で、評論が小説になる時代なんですよ」と明言したこともある。
「私はこの言葉に妙に触発されたのか、時代小説を書きながら時事評論をしたがるようなところがありますね」