小説家デビューで断たれた関係
富岡の松井への愛は、自分の担当編集者を遣わすという形で表れた。岩波と筑摩の編集者が松井のもとに「小説を書いてください」とやってきたのである。
「もう、はぁ? って感じで、どんどん富岡さんが先行してそんなことをなさるので、とうとう、小説家ってものを私はそもそも認めてない人間なんだということをハッキリ言わなければいけない気持ちになって、『役者も小説家もひとに愛されたくてしょうがないひとがやってる商売で、役者は愛される自信のあるひとがやっていて、小説家は愛されたいけど愛される自信のないひとがやってる商売だ』なんてひどいことを面と向かって言いました」
それでも続いていた作家との縁がプツリと切れたのは97年、松井が富岡の知らないところで『東洲しゃらくさし』を書いて、小説家デビューしたときだった。歌舞伎の啓蒙書のようなつもりで書いた作品が評判を呼ぶと、富岡は出版されたその月に、名前こそ出さなかったものの「朝日新聞」のコラムにあてつけるような批判を書き、「なんで写楽なんや。なんで純文学書いてくれないの」と電話を寄こした。84年に、池田満寿夫が『これが写楽だ』を書いていた。
「またも、はぁ? という感じでした。エンターテイメントを軽蔑してるわけではないと私に言った方が、なぜ私みたいな人間に純文学を書けと言われるのか。なんで写楽なのかと因縁つけられてるみたいな感じなのもいい加減イヤになってきて、『もう二度と電話してこないでください』と言いきりました」
「朝日新聞」の文芸部記者から富岡が松井の活躍を喜んでいるとの話は聞いていたものの、以来、すっかり関係は絶っていた。ところが、2015年、引っ越してごくわずかなひとしか知らない自宅の電話が鳴って、「今朝子?」と地の底をはうような暗い声が聞こえてきたのである。松井は苦笑する。
「まるでホラーのような怖さがありました」