「あんた、小説書きなさいよ」
11月に『伝統芸術とは何なのか』が刊行されてからもふたりは芝居を観たり、ご飯を食べたり、2カ月に1度くらいの頻度で友だちのように会っていた。しゃべることはいくらでもあった。師の評伝を書いてもらうのが目的の松井は資料や年譜をせっせと渡したが、作家はうなずかず、ついには「あんたが書きなさい」と言い、ケンカになったりもした。
富岡から驚嘆する言葉をかけられたのは90年9月、近松座がこんぴら歌舞伎公演を行ったときだった。「一緒に行こ」と言われて、香川・琴平へ同行した。松井の遠縁にあたる中村扇雀が贔屓にしていた敷島館に泊まり、金丸座へ向かう琴平の道を歩いていると、富岡がスーッと後ろに回って電柱の横に立ち声をかけてきたのだ。
「あんた、小説書きなさいよ。私が後押しするから」
夢にも思ったことがないことを言われたショックで、松井の記憶にはそのシュールな光景が焼きついたままだ。
「武智先生に死なれて第二の多感期というか、ある種の硬い皮が弾けるような状態の私をご覧になっていたからかもしれませんが、そのときは、えっ、この人なにを言ってるんだ!! と思ってね。早稲田の文学部なんかに行ってると小説を書きたいひとは山のようにいますから、小説を書くと聞いただけでいささかうんざりする気持ちだったんですよ」
出会ったころから富岡は、「もう小説は書けないから、60歳になったらやめるんや」と言っていた。読むならもっぱら純文学だった松井に向かって、こんな話もした。
「小説家は、どんな小説家でもえらいと思う。エンターテイメントを軽蔑しているわけやなくてね。でも、山村美紗さんのようなエンターテイメントは私には書けないの。ただ私にはもうちょっと売れる方向性もあったけど、編集者があるとき進ませる道を間違えたんや」
デパートを歩いていて、「今度、原稿料をもらったらこれ買う」と毛皮のコートを手にし、「純文学を書こうがなにを書こうが、私も含めて作家はみんな俗物でっせ」と言ったこともある。
そんな富岡が、松井を本気で小説家にしようと考えたようで、「小説書きなさい」と口説きにかかったのだ。
「私には味方がいないのよ。あんたが小説家になって私の味方になってほしい」