「分身」への頼みごと
ちょうど、富岡が上野千鶴子、小倉千加子と「男流文学論」の読書会にとりかかっていた時期でもあった。その話を聞かされた松井は、「だんりゅう? 暖流文学論? それはなんなのか?」ととっさに首を傾げた。
「それくらい私は文学界に疎かったんです。あとになって時代小説を書き出したとき、記者会見で『女性で時代小説を書くというのはどういう気持ちなんですか』と聞かれて、文学界ってジェンダー意識の強いところなんだってびっくりしたほどです。私がいた演劇界というのは、女らしい女優さんが男っぽい性格だったり、逆に男優は女性的だったりするのが当たり前という意味でも、すごくジェンダーレスな世界で、私自身もジェンダーをほとんど意識していなかったから、全く違う世界の問題としてそれを捉えていた気がします」
「男流文学論」の読書会が京都で行われるという前日に、松井は、実家である祇園の料亭「川上」へ作家を誘った。富岡は料理を堪能し、隣のバーでジントニックをグイグイと空けて、またも松井を唖然とさせることを口にしたのである。
「明日の読書会にあんた来てくれへん? あんたが来て、それを全部壊してくれない?」
無論、松井は断ったが、富岡が突然鬱になってそのときの読書会は取りやめになったと、あとで知らされた。
「私のせいで鬱になられたのかと妙な責任を感じたほどです。文学界とは無縁だった私にも、なんだか迷走されているように映っていました」
自分で仕掛けたものの、このときの富岡は、「男流文学論」を投げ出したくなっていたのだろう。師を失った松井が混迷の最中にいた時期に、作家も文学者として葛藤し、引き裂かれていたのである。
尊敬する武智鉄二の愛弟子で、同じ関西の言葉で好きな歌舞伎や浄瑠璃を語り合え、臆することなく自分としゃべる松井に、富岡は「あんた、若いころの私に似てる」「あんた、怖いわ」と言ったという。身内か、自分の分身のような気持を抱いていたようで、さらに松井を仰天させることを頼んできた。
「私と菅は年が離れてるから、私のほうがはよ死ぬと思うの。あんた、私が死んだら菅と結婚してくれへん?」
松井は、富岡が歌舞伎座へ同伴した菅に一度だけ会っていた。
「そのときは、背のスラッと高いなかなかいい男だなと思った記憶がありますが……。富岡さんに対しては、また唐突になにをわけのわからないことを言うひとなんだと呆れてました」
この話を菅にすると、菅は切なそうな表情をした。
「僕があのとき『松井さんって感じのいいひとだね』と言ったのを、多惠子さん、覚えていたんですね」