証券会社に参画する計画が頓挫
ところが、です。
一三が妻と3人の幼い子どもを連れて大阪に着いた途端、株式市場が暴落。日露戦争の戦勝景気で高騰していた株価が反動を起こした結果でした。
これにより、設立されるはずだった証券会社の話は立ち消えになってしまいます。
意気消沈する一三に、それから2カ月後、また別のチャンスが訪れます。前述の三井物産の飯田と岩下から意外な話を持ちかけられました。
「阪鶴鉄道の監査役になってくれないか」
事情を聞けば、国有化を控えた阪鶴鉄道は清算会社になると決まっていましたが、株主たちは代わりに、大阪梅田─箕面─宝塚、宝塚─西宮を結ぶ、箕面有馬電気軌道株式会社の設立を目指していると聞かされます。これが後の阪急電鉄です。
監査役として一三が頼まれた仕事は、大阪梅田を起点として、まだ電車が走っていない池田・宝塚・有馬地区へと鉄道を敷設すること。
無職の一三に断る理由はありません。今度こそとばかりに、一三は阪鶴鉄道の監査役に就任しました。
準備を進めていくなかで直面したのが資金調達の問題です。なかなか株の引き受け手が見つかりませんでした。
実に発行株式11万株のうち5万4000株も未引受株が出てしまい、会社設立前から、解散の危機に見舞われていたのです。