(写真提供:Photo AC)
子どもの巣立ち、親の介護など…中年期を迎え環境が変わり、この先の人生を憂いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのようななか「後世で『偉人』と称された人のなかには、人生の後半で成功した『遅咲き』の人が少なくない」と話すのは、偉人研究家、伝記作家の真山知幸さん。そこで今回は、真山さんの著書『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』より「阪急電鉄」の生みの親・小林一三が「創作者」という長年の夢をかなえるまでを一部引用・再編集してお届けします。一三は大学卒業後に三井銀行に就職。しかし、学生時代からの夢だった小説家の道を諦めきれないまま、仕事への不満が溜まっていったようで――

34歳 銀行を退職

「銀行の仕事は少しも面白くない」(※1)

そんな不満を持ちながら、新聞社への就職はかなわずとも、せめて環境を変えたいと、住友銀行や北浜銀行への転職を試みるも失敗。三越呉服店に誘われたときは嬉々として借金までして三越株を買い込みましたが、最終的には内定に至りませんでした。

何をやってもうまくいかなかった一三。

しかし、そんな一三にもついに転機が訪れます。

日本で初めて証券会社を設立するという話が持ち上がり、かつての上司であり北浜銀行をつくった岩下清周や、三井物産の飯田義一から、新事業への参加を求められたのです。

一三にとって岩下は、ダメ社員扱いを受けていた自分を評価してくれた数少ない上司でした。岩下が一三に注目したのは、好き嫌いをはっきり言う性格と、けた外れの行動力に惹かれたからです。

岩下は「近い将来、きっと何か大きなことをやる人物かもしれない」と、一三のポテンシャルを評価していたといいます。

自分を評価してくれる人から新規事業に誘われれば、心も躍るというもの。

一三は関係者から事情を聞いて回りながら、新事業の風向きが悪くないと判断すると、サラリーマン生活に終止符を打つことを決意。13年間勤めた三井銀行に辞表を叩きつけました。そして34歳にして、第2の人生の舞台となる大阪の地へと向かいました。

(※1)小林一三著『小林一三─逸翁自叙伝』(日本図書センター)