ぼやいてちょっと笑わす手法
崑さんは高校を卒業すると、神戸・三宮のキャバレー「新世紀」のボーイになり、ショーの司会をやりながら芸能界を目指し始める。当時、ラジオの人気司会者だった大久保怜に弟子入り。
芸名は大久保の大と崑さんの本名岡村の村を合わせて「大村」。「崑」は、ンの字の付く名前は覚えてもらいやすいからという理由でつけられた。でも第2の転機は、やはり作家の花登筺(はなとこばこ)さんとの出会いだろうか。
――そうですねぇ。『やりくりアパート』とかで僕を育ててくれた大恩人ではあるけどね、第2の転機と言えば東京の仲間、谷幹一、関敬六、渥美清に出会ったことだと思う。
その時分、彼らは「スリーポケッツ」というトリオを組んでました。『番頭はんと丁稚どん』の特番で、東京のテレビ局に行った時のこと。隣の漫才コンビの楽屋から「うるせえな、大阪の電気紙芝居の人間が何騒いでるんだ、挨拶に来させぇ」って声がして、険悪な状態になった時、かばってくれたのがこの三人でした。
それからは東京へ来るたびに谷幹一のうちに泊めてもらったり、浅草で初めて馬肉を食べさせてもらったりとか、ずいぶんお世話になりましたからね。
東京ではいろんな人に会いました。森繁久彌さんとか。関西出身の人なんで、特別に可愛がってくれたけど、あの人、怒ったことないの。
たとえば何人かとご飯食べに行くとするでしょ。「美味しいか」って訊くでしょ。「先生、今日の味はちょっと」って言うでしょ。「おい、コック呼べ」って、怒るのかと思うでしょ。でも、「この味いつもと違うやん、のどちんこ手術したのか?」って。みんな笑うでしょ。それでお金ちゃんと払って帰る。帰りしなに「一週間後に今日の人間みんなここへ集まれ」って言う。
向こうも今度は心入れて作るでしょ。みんなで手を叩いて「美味しい美味しい」って。コックさんにっこりして、「ありがとうございます」って。そういう人なんですよ、怒らないで、ぼやいてちょっと笑わす……という手法を、僕は森繁の親父さんから勉強しましたね。
芸は盗むものだからね、森繁さんからも藤山寛美さんからも盗んだけど、この人たちがいなくなったらもう僕の芸なの。(笑)