時流に乗った南畝
生家は長屋住まいの貧しい家でした。
お父さんはお城勤めとはいえ、いわゆる非番の日が多かったようですので、内職に精を出していたのではないでしょうか。ちなみに当時の御徒がしていた内職としては、金魚や朝顔の飼育が有名です。
一方のお母さんは教育ママだったようで、借金をしながら我が子の教育に勤しみました。それで彼は幼少より学問に励み、様々な文筆活動に親しんだようです。
17歳で出仕を始めます。21才頃、四方赤良と号し、狂歌会を開催します。
それまで狂歌の中心は上方でしたが、江戸でも流行しはじめ、彼も大いに名声を得ることになりました。時はまさに田沼時代。潤沢な資金を背景に商人文化が盛んになった時代であり、南畝はみごとに時流に乗りました。