食事中の松太郎。無我夢中で食べるのでいつも皿からごはんをこぼしてしまうが、井上さんは「そこがかわいい」と言う

 

父の棺から離れなかった絹代

振り返ってみると、子どもの頃から、身近に猫がいるのが当たり前。実家で飼っている猫に加えてエサを食べにくる野良もいて、多い時には9匹が出入りしていました。

父(作家の井上光晴さん)は、猫のことを嫌いではなかったけれど、それほど執着はしていなかったと思います。猫が姿を見せなくなると私たちが心配するので、それに多少はつきあうものの、本心はどうでもいい、みたいな感じでしたね。

かおると名付けた猫は、数日姿が見えないと思ったら、足に罠をつけたまま足を引きずって帰ってきました。獣医さんに外してもらいましたが、結局、それがもとで死んでしまった。家族にとって、ショックな出来事でした。

後に父の小説で、奇妙な光景として、「喪服を着て猫の葬式をする人たち」という描写が出てきました。私はある時期から父の手書き原稿の清書をしていたので、いち早く作品を読むわけですが、作家はこうやって経験を小説に使うんだ、と興味深く思った記憶があります。もちろんわが家では、喪服を着て葬儀をしたわけではありませんが。(笑)

猫らしい名前を付けるのはちょっと恥ずかしい、みたいな感覚がある家でしたので、猫にはわざと面白い名前を付けていました。野良が子猫を産んだ時、1匹だけいつまでたっても虫みたいに小さな子がいたので、名前はムシに。すると父は、『病む猫ムシ』という小説を書きました。その頃父は大腸がんを患っており、自分の病気と絡めた内容だったので、ちょっと悲しい小説でした。

父が亡くなったのは1992年、私が31歳の時です。お通夜で父の遺体は居間に安置されていましたが、棺の上に当時飼っていた絹代という雌猫がずっと座っていました。特に父から可愛がられていたわけでもないのに──。

父がいなくなって、母は寂しかったのでしょう。野良の子猫を家に入れ、ふうちゃんと名付けて飼うようになりました。やがて今度は、母にがんが見つかり、かなり深刻な状況だとわかります。

私はすでに今の家に引っ越していたので、母に同居を勧めました。彼女は「ふうちゃんがいるから行けない」と渋っていましたが、私が「連れてきたらいいじゃない」と言ったところ、その気になってくれた。でも、ふうちゃんは、慣れた実家を離れたストレスがあったのでしょう。母と一緒にうちに来てほどなく、体調を崩して亡くなってしまいました。

ふうちゃんには、可哀想なことをしたと思います。どうにかできなかったのか、と悔いが残りましたが、母は、「ふうちゃんを置いていくより、先に死んでくれてよかった」と言いました。それから1年経たないうちに、母も亡くなったのです。