父と母も、いたような、いないような。いやいや、いたかもしれない。どんなに老い衰えても、ひろみ大切という気持ちはなくさない人たちだった。それが親なのだった。それなのに、父と母が死んだとき、あたしは、ねこちゃんの死よりもっと淡々と受け止めて、粛々と動いたものだ。
ともかくだ。あたしは泣かない。昔から人の死に泣いたことがない。そのへんは淡々を超えて、冷酷で実際的だ。ねこちゃんが死んだ後もあたしは泣きゃしなかった。
いなくなったって、日々の生活は変わらない。以前から東京に行かないかぎり会わなかったし、あたしはめったに東京に行かない。日常は続く。
ねこちゃんが死んだ翌々日、熊本行きの機内で『野生の島のロズ』をやっていた。ドリームワークスのアニメーションだ。ふと見始めて号泣した。隣の人いたのに。ねこちゃんのことを考えてたわけじゃない。ロズというロボットの気持ちに共感したからなんだが、もしかしたらロズはねこちゃんだったのかもしれない。それから東京に行き来するたび、機内でそれを見た。見て号泣した。これからもこの映画を見るたびに「ねこちゃん死んだねこちゃん死んだ」と考えながら飛行機に乗った自分を思い出すだろう。ねこちゃんの死に顔なんかも思い出すだろうけど、それはきっと少しずつ薄れていく。
『対談集 ららら星のかなた』(著:谷川 俊太郎、 伊藤 比呂美)
「聞きたかったこと すべて聞いて
耳をすませ 目をみはりました」
ひとりで暮らす日々のなかで見つけた、食の楽しみやからだの大切さ。
家族や友人、親しかった人々について思うこと。
詩とことばと音楽の深いつながりとは。
歳をとることの一側面として、子どもに返ること。
ゆっくりと進化する“老い”と“死”についての思い。