「兄です」
ひとりでに口が動いていた。
「それはたぶん、僕の兄だと思います」
✻
兄もこの町に来たことがあったのだ。
調査をしに来たのか、それとも、突然の雨に急き立てられて迷いこんでしまったのか──。
それにしてもだ。たまたま雨宿りに入った文具店に、このボールペンのインクが常備されているとは。兄も驚いたに違いない。
店を出ると、雨は駆け足で走り去ったように上がっていて、駅の方へ行きかけた足をとめて、入れ替えたばかりのインクの調子を試すべく手帳を開いた。
月舟町
忘れないうちに町の名を書きとめ、インクを替えてくれた〈南雲文具店〉の店主と思われる彼女の、その手つきの妙を反芻していた。
いささか頭がぼんやりしていたかもしれない。
不意に小さな何ものかが微弱な音をたてながら飛来し、ひとしきりこちらの体にまとわりついた挙句、あらかじめそうなることが決められていたように、月舟町の「月」の字の上にぴたりととまった。
名も知らぬ羽虫だ。この夜の始まりに打たれた句読点に見える。
しばらく、「月」の字の上でじっと身をかためていたが、それからまた不意をついて飛び立つと、目で追ったその行方になにやら白いものが見えた。
そのあたりは街灯の数が充分ではないのかもしれない。
足もとからのびた暗い道の先に十字路があり、その十字路の角にある小さな店の白いのれんが、どこからか吹いてきた風にはためいていた。
のれんに名はない。