母は東京大空襲の時、父の実家のあたりに逃げて助かった
父は次男で姉と弟と2人の妹がいた。兄は幼い頃に病で亡くなった。
東京大空襲の時、父は兵士として中国にいて、弟も別の戦地にいた。姉は結婚して夫の家にいて、そこに妹(三女)もおり、東京大空襲をなんとか逃れた。
父の両親と妹(次女)は、2月の空襲で本所区(現在の墨田区)の自宅が燃えてしまい、両親は深川区(現在の江東区)の知り合いの家に、妹は勤労奉仕があるので深川区の友人の家に泊まっていた。妹は空襲の中を友人と逃げたが、炎に囲まれ、友人に「大丈夫よ。先に行って」と言い、それが友人が見た最後の姿だった。
父と私の母は、戦後数年たってから出会い、結婚したが、不思議なことが分かった。
私の母も東京大空襲を経験し、母は母の父親と弟とともに深川区の自宅から、2月に空襲があった本所区に逃げた。父親とはぐれてしまい、母は防空壕に入ったが、そこに火が入り出ることになった。そして、弟と二人で火の粉が降り注ぐ中を耐えて生き残った。鎮火したあと、父親が捜し回り、防空壕の中に母のショールと父親があげた5cmの観音像が落ちているのを見つけて、生きていると確信し、両国駅の外にいる母と弟を見つけたのである。(同連載の第18回と第19回参照)。
母が弟と火の粉の中で耐えた場所は、未来の夫の家があったあたりだったのである。
母は信仰心がないのだが、会ったことのない父の両親と妹が同じ空襲の中を逃げ、命を失ったことへの悲しみが強く、供養の気持ちを忘れなかった。父の妹は、母とは違う学校に通っていたが、同じ年齢だったのである。
母は毎日、仏壇に自分が作った料理を供えて拝んでいた。そして、仏壇の中央には、母が防空壕に置き忘れ、父親が拾ってきた5cmの観音像を置いていた。位牌を拝まない父に対しては、何も言わなかった。
平成11年に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」(東京都墨田区の都立横網町公園内)の建設が開始され、非戦闘員である都民の犠牲者の名前が碑の中に納められると知ると、母は夫の両親と妹の名前を書いて提出。寄付金も送った。この碑は昭和17年4月18日の初空襲から終戦の昭和20年8月15日までのアメリカ軍の空襲により、被害を受けた犠牲者を追悼している。