シベリア抑留から生還。しかし、妻は別の人と結婚
私が35歳の時、父の秘密を知った。私は取材である街を訪れ、その街の話を両親にした。すると父は、さらに詳しく話し出した。母は「あの人と行ったのね!」と、怒りを爆発させた。父には愛人がいた。「得意先に行く」とか、「友人に会う」と言って家を出て、その得意先や友人から電話があり、愛人と出かけたことが、いつもバレていた。母は父の装身具ケース会社の経理ではなく、製造をしていた。「業界の景気が悪いから儲からない」と父は言っていたが、母は愛人の方にお金が流れていると思っていたようだ。
愛人とその街に行ったと思い怒る母に、父は「違う、違う、前の女房と行ったのだ」と口走った。母は「そうなの」とあっさり納得したが、私は驚いた。父に「前の女房」がいたことを知らなかったからだ。
話を聞くと、父は戦争に行く前に歴史のある立派な寺院の娘さんと結婚し、その寺院にいたこともあったそうだ。前妻は父より年上で、私があこがれる有名な会社に勤めていた。
父は、軍隊ではやたらに上官に殴られていたが、上官にいつもほめられることがあった。日本から来る手紙が検閲されていて、上官が「おまえの奥さんは、文字が綺麗だし、文章はうまいし、才女だな」と言われていたのだ。
父がどこで終戦を迎えたかは聞きそこねたが、日本に帰るつもりが、着いたのはシベリアで、抑留させられてしまった。わずかな食料しか与えられず、材木を伐採して運ぶなどの重労働をさせられた。1年4ヵ月がたち、ソ連人(医師かは不明)に胸の肉をつかまれ、栄養失調で骨と皮というやせ細り方なので、これ以上働けないと判断され、日本に帰れるようになった。
父は京都の舞鶴港に着き、東京の姉夫婦の家を目指した。そこに妻がいると思っていた。
栄養失調でフラフラだったが、妻に会えるという思いが、父を支えていたそうだ。
姉と妹は、父にすがりついて喜びの涙をこぼした。誰もが戦死したと思っていたのだ。
妹は妻を呼んでくると言って出て行った。かなりの時間がたち、妻が来た。
妻は父の前に正座をして、「死んだと思っていました。好きな人ができて結婚しました。失礼します」と、深々と頭を下げて帰ってしまったそうである。
父が話し終えると、母は、「両親と妹の戒名は、お父さんのご先祖の宗派ではなく、前の奥さんが生まれたお寺の住職がつけたと、お父さんのお姉さんから聞いている。前の奥さんを思い出すから、お父さんは仏壇を拝まないのよ」と言った。父はその時、黙っていた。