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ライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間勤務しながら家族の看護・介護を務めてきました。その辛い時期、心の支えになったのが大相撲観戦だったと言います。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります

「東京大空襲で防空壕から追い出された母。炎の中を這ってきた弟に、生死の狭間で決意を告げる」から続く

火傷を負い、ボロボロの姿で両国駅へ

昭和20年3月10日の東京大空襲では、約10万人が亡くなっている。

中村高等女学校(現在の中村中学校・高等学校。東京都江東区清澄)の生徒だった私の母と中学生の弟は、父親(私の祖父)と深川の自宅から火の粉が降り注ぐ中を逃げたが、父親とはぐれてしまった。母は防空壕を見つけて入ったが、火が迫り、外に出てくれと言われ、その通りにした。しかし、母は炎を浴び、戻ろうとしたが、防空壕の人たちは、鬼のような目をして、「その人を入れては駄目!」、「あっちに行け!」と叫び、追い払われた。死を覚悟した時に、新潟県にいる母親が、遺体を探すのが大変だと思い、自宅に戻ることを決意。炎に囲まれながら、弟と地面の近くの空気を吸いながら耐えた。

一陣の風が吹いた。米軍の大型爆撃機B29 の攻撃は終わり、街は焼き尽くされ、鎮火したのである。母は弟と口をパクパクと開けて、空気を吸うというよりも食べた。火は酸素で燃えるので、酸欠状態だったのだ。母は晩年、「あの時の空気の美味しさは忘れられない」と言っていた。

自分を追い出した防空壕の人たちが、どうなったかなど見る気力はなかった。母の膝の上に意識不明の子供をのせて、「この子をお願い」と言って去ってしまった女性がいたが、その子供がどうなったかなど、頭には浮かばなかった。弟は大きなラジオを抱えて逃げていたが、そのラジオをどうしたかなど、どうでもよかった。

父親の言葉だけを思い出した。「この戦争で日本は勝ちもしなければ、負けもしない。アメリカは日本を占領した時に、また建設するのはめんどうだから、駅と線路と橋は爆撃しないだろう」だった。母と弟は両国駅を目指して歩いた。そこで父親に会える気がした。

母は逃げる時に国技館が燃えるのを見て、日本は戦争に負けたと思った。悲惨な光景を見ながら歩き、その思いはさらに強くなった。母が着ている中村高等女学校の制服は焦げ、三つ編みにした髪が、首から肩にかけての大火傷にめり込んでいた。はいていたモンペは片方が焼け落ち、太ももにも火傷をしていた。靴は片方だけはいていた。

母と弟は両国駅の前に座り込んだ。