人間はしょせん一人、しかしミカンはもらった
母の父親は、空襲の中を逃げるうちに娘(私の母)と息子(母の弟)を見失い、火の粉の中を2人の名前を呼んで捜し、鎮火すると焼死体の中を歩き回って捜した。無残な防空壕を見つけ、そこに娘のショール、5cmの観音像、靴の片方があった。父親は、娘と息子は生きていると確信した。父親は、生まれ故郷の新潟県のお寺で観音像を手に入れ、子供たちに渡していたのである。
父親は両国駅で娘と息子を見つけ、3人で深川の自宅まで歩いたが、自宅も近所の家々も全焼していた。東京の祐天寺近くの親戚の家に行こうと、3人は地下鉄の銀座線に乗るために、日本橋を目指して歩いた。
母は、日本橋の橋のたもとに、弟と二人で立っていた。父親は銀座線が動いているか聞きに行ったのである。母は自分がひどい姿でいることは、少しも恥ずかしくなかった。緊張していて、お腹も空いていなかった。男性が近づいてきて「可哀そうに」と言い、母の手をとって、ミカンを1個、手のひらにのせて、去って行った。
母たちは、祐天寺近くの親戚の家に泊まることができた。その後、新潟県の親戚の家にいる母親と弟妹たちの所に行き、そこに住まわせてもらった。母は火傷の治療をし、卒業式に出ることはなく、終戦も新潟県で知った。
母は、鬼のような恐ろしい目と言葉で、防空壕から自分を追い払った人たちを忘れることができなかった。その人たちのために外に出たのに…という思いが強く、人間不信になっていた。そのことを父親に言うと、「人間はしょせん一人なんだよ」と言われた。その言葉がむしろ母には救いだった。しかし、ミカンをくれた人のことも忘れてはいなかった。
ミカンを食べることで命が救われたのではなく、渡されたことで心が救われたのだ。