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ライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間勤務しながら家族の看護・介護を務めてきました。その辛い時期、心の支えになったのが大相撲観戦だったと言います。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります

東京大空襲は卒業式の前だった

戦後80年の今年、新聞記事やテレビ番組などで戦争が取り上げられている。NHKの連続テレビ小説『あんぱん』を見ている私は、あんぱんが食べたくなり何度か買ったが、ドラマが戦争の時代に入ったとたん、母の話を思い出すようになった。

母は、昭和2年に東京の深川で生まれ、そこで育ち、昭和20年3月10日の東京大空襲で家が全焼するまで暮らしていた。

母は、中村高等女学校(現在の中村中学校・高等学校。東京都江東区清澄)の生徒で、戦時下なので同級生たちと藤倉電線(現在のフジクラ)や石川島播磨重工業(現在のIHI)などで勤労奉仕に励んでいた。そして、昭和20年3月25日に卒業式を迎えるところだった。

母の父親(私の祖父)は、戦争により自営の印刷業をやめ、当時は国民服令による国民帽などを製造していた東京帽子(明治創業の製帽会社)に勤めていた。

母は長女で、長男の弟は中学生だった。母と弟には、父親が家事と炊事が全くできないため、それをする役目もあった。

東京への空襲がたびたびあるので、母の母親(私の祖母)は、次男、次女、末っ子の三男とともに、新潟県の親戚の家で暮らしていた。

父親は、「米軍の爆撃機は、焼夷弾を落として燃やした場所には、もう来ないだろう」と言い、空襲が終わると、自転車に乗り、逃げるための場所を調べていた。

3月10日の未明の空襲では、近所の人たちは隅田川や小名木川の方へ逃げたが、母の父親は、2月に空襲があった当時の本所区の方向を目指した。