イメージ(写真提供:Photo AC)
ライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間勤務しながら家族の看護・介護を務めてきました。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります。今回は、しろぼしさんのご家族についてのお話です。父親は大正7年生まれ、立派な寺院の娘さんと結婚した後に出征。終戦後はシベリアに抑留され、帰還できた時には――

前回「シベリア抑留から生還した父。日本にいた愛する妻は別の人と結婚しており、両親と妹は東京大空襲で死亡。父の謎を追うと、戦争の悲劇が…」はこちら

毎朝、誰かしらが死に、雪の中に埋める日々

私の父は戦地で終戦を迎え、日本に帰れると思ったが、シベリアに抑留された。わずかな食料しか与えられず、材木を伐採して運ぶなどの重労働をし、飢えと寒さで、朝起きると誰かしらが死んでいた。1年4ヵ月がたち、あまりのやせ細り方に、これ以上働けないと判断され、日本に帰れることになった。父は、ようやく愛する妻に会えると思った。

栄養失調でフラフラになりながら、東京の姉夫婦の家にたどり着いた。そして、妻が現れ、父の前に正座し、「死んだと思っていました。好きな人ができて結婚しました」と、深々と頭を下げられたのである。

私は父が短気なのを充分知っているので、妻にどれくらい怒鳴ったのかと聞いた。

父は、「栄養失調のままシベリアから船に乗り、京都の舞鶴港から東京に帰ってきたのだ。座っているだけでやっとだった。奥さんに何を言われても、反応する力がでない。立ち上がって、怒鳴る気力もない。『ああそうですか』とやっと言った」と、しみじみ話した。

その後に結婚した私の母は、「死んだと思われて、奥さんが別の人と結婚した話は、戦後はたくさんあった。お父さんの前の奥さんはすごい才女だよ。シベリア抑留で帰れず、死んだと思われていなくても、いずれは、お父さんは奥さんに愛想をつかされて、追い出されていたよ」と言うのだ。

母は、東京大空襲で大火傷をして、東京から新潟に行き、親戚の家のお世話になっていた。終戦後は、東京に戻り、あちこちの会社に勤めて家計を支え、夜は洋裁学校に通っていた。父と結婚した時に、前妻が縫った着物と仕立てた洋服を父が持っていた。その見事さに母は感服したそうだ。私も前妻の職業を聞いて、父には申し訳ないが、あこがれてしまった。

前妻は歴史のある立派な寺院の娘さんで、父はその寺院にいたことがあり、「親父(前妻の父親)に『僧侶は向いていない』と言われた」と、呟くように言った。

母は、東京大空襲で亡くなった父の両親と妹の戒名は、前妻が生まれたお寺の住職がつけたと父の姉から聞いたそうで、「前の奥さんを思い出すから、お父さんは仏壇を拝まないのよ」と言っていたが…。