ふと思い立って、着て行くあてのないシャツにアイロンをかけた。
母が遺したシャツだ。
母もよくアイロンをかけていた。人生はアイロン台の上で再生される。どんなにくたびれていても、アイロンさえかければ、ひとまずどうにかなる。
「人間ってね」
母はアイロンをかけながら声をひそめて言ったものだ。
「人間って、ひとりでいることが基本なの。それが常態なのよ。それをずっとつづけるか、それとも、ふたりで生きていくことを選ぶのか──」
門司君にその話をすると、
「ハタさんもそう言ってたよ」
洗濯したばかりのシャツを手にし、アパートの窓から、「また雨が降ってきそう」と空をうかがっている。
「ハタさんって?」と訊くと、
「商店街の古道具屋の──」
「あのご主人? ハタさんっていうの?」
「そう。十字路の食堂で顔を合わせるうちに仲良くなって。俺の店に来いって言うから行ってみたんだけどね、ハタさんは耳が遠いから声が大きくて。いちいち大きな声で、人間はみんなひとりだって。だけどね──」
「だけど?」
「だけど、そこをねじ曲げて生きていくのが人生だって。ねじ曲げて、抗って、なんとしても誰かと生きていくのが人生だって」
「そうなの?」
「もしかして、そうなのかもしれないよね。なにしろ、すごく声が大きいから、そうかもしれないって思った」
「それで?」
「だから、椅子をふたつ持って行けって。ひとつじゃなく、ふたつ持って行くんだぞって」
部屋の隅に、古びてはいるけれど頑丈そうな椅子がふたつ並んでいた。
「そんなお金、どこにあったのよ?」
「いや、貰ったんだよ。ガラクタだから持って行けって」
そうは見えなかった。ガラクタどころか、とても立派な椅子に見える。
それとも、「なんとしても誰かと生きていく」というハタさんの声が、椅子を通してわたしの耳にも聞こえたからだろうか。
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