細川宗孝の場合

延享4年(1747年)8月15日、9代将軍・徳川家重の時期ですが、肥後・熊本の太守(54万石)、細川宗孝は月例拝賀式のために登城し、大広間脇の厠に立ち寄りました。

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するとそこで背後から斬りつけられ、ほどなく落命しました。犯人は以前にご紹介した「旗本寄合席」の一人、板倉勝該という人物(6000石)でした。

宗孝は32歳。子供はまだおらず、養子も立てていませんでした。ということはつまり、細川家はここで無嗣断絶、という事態もあり得たのです。

このときとっさに窮地を救ったのが、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村でした。

宗村は「越中殿(宗孝は越中守)はいまだご存命である。早く屋敷にお連れして手当てをせよ」と細川家の家臣に呼びかけました。

家臣たちはこの言葉を聞いてハッと真意を悟り、宗孝の遺体を急ぎ細川藩邸に運び込み、手当している態をとりつつ、宗孝の弟・紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出たのです。

そのうえで翌日、宗孝は介抱の甲斐なく死去、と報告。このことによって細川家はなんとか、取り潰しの危機を脱しました。