勝該は宗孝を殺すつもりではなかった?

この刃傷は勝該の勘違いによって起きた、とされます。

彼には日頃から狂疾の気があり、本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自分を隠居に追い込もうとしている、勝清の子に跡を継がせたがっている、と思い込んでいました。

そこで勝該は勝清を討つつもりで斬りかかったのですが、細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と間違えたのだ、と細川家は説明しています。

いや違う。人違いではなく、最初から宗孝を殺すつもりであった、とする説もあります。

白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷の崖下に位置していました。そのため、大雨が降るたびに、下屋敷から汚水が流れ落ちてくる。

勝該は細川家に排水溝を設置するように何度か懇願したけれども無視されたため、耐えかねて犯行に及んだというのです(『醇堂叢稿』という資料による)。