“万年課長”でも「会社と社員のために」

しかし最初のインタビューの2006年時点では、田川さんが勤務する会社では就業規則で休職制度は設けられていたものの、精神疾患による休職は前例がなかった。今から20年近く前の時点では珍しいことではなかった。通院加療、自宅療養のため1週間程度、欠勤する診断書の提出を繰り返して、トータルで1か月以上など長期にわたって仕事を休むケースが徐々に増えていく。メンタルヘルス不調者に対する休職制度の充実が喫緊の課題だった。

そこで、田川さんは上司に心の病にかかった社員が診断書を提出して休職しやすくするために上司に進言するなど尽力し、2年後の08年、晴れて就業規則の「傷病休職」項目に、「精神疾患」が追記されることになった。当初彼が取材を受けてくれた理由でもあった「これからの会社と社員のため」にとっては紛れもなく画期的な進展である。

そしてこの後も新たなメンタルヘルス対策を打ち出し、実現させていくのだが、このあたりから、彼の積極的で、時にはアグレッシブな対策推進への進言によって、上司との折り合いが悪くなり始めたのではないかと推察される。

08年以降、田川さんは少しずつ、会社への不満を口にするようになる。09年、課長職のまま46歳の誕生日を迎えた直後のことだ。

「社員のメンタルヘルス不調は、会社の問題であって、個人の問題ではない。この点を上司の部長に訴えると、眉をひそめて露骨に嫌な顔をされました。その時点で意見を引っ込めるという手もありましたが、あくまでも自分の考えを推し進めた。その結果、就業規則に心の病での休職が明記されたんですが……それはつまり、自分の出世を見送ることにつながっているのかもしれませんね。これが、負け組の“万年課長”の始まりなんですかね……」

この時点で、彼は出世を完全に諦めていたかというと、そうではない。「誰か、わかってくれる上司が現れればいいんですけれど……」と最後につぶやくように漏らした言葉からも、そのことがうかがえた。