毛利重就の改名
それで実際に調べてみると、重就は吉宗将軍死去の宝暦元年(1751)年に家督を相続し、重就を名乗りました。
年齢が27歳、と通常より遅かったのは、先代の末期養子として分家から入った、という事情があったためです。
重就さん、立派な殿さまだったようで、萩藩の財政赤字の立て直しに努めました。港を整備して商船を呼び寄せ、塩田を開発し、製紙・製蝋・製糖に力を入れ(米を加えて防長四白政策という)、毛利家中興の祖、と謳われました。もちろん一方では、重い年貢を課して領民の怒りをかった、ということはあったようですが。
それで、なんで唐突にこの殿さまの話を紹介したかというと、改名しているからなのです。改名といっても、漢字の字面はそのまま。読み方を変えたのです。