改名の理由は“徳川家斉”

天明元年(1781年)、10代将軍・徳川家治の後継に、一橋治済の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名しました。すると、「しげなり」の「なり」が家斉と重なるため、遠慮して、読みを「しげなり」から「しげたか」に改めました。

読みが同じになったので変える、という実例は、古くは鎌倉時代初めにあります。

源義経が朝敵になると、当時の貴公子、藤原(九条)良経と音がかぶるのが不当である、という次第になりました。そこで当人不在の状況で、義経の名を「義顕」に改める、という措置がとられました。

行方をくらましている九郎の所在が明らかになりますように、との願いを込めて「顕」の字を使う、というコントのような理由で「義顕」。義経は結局、平泉に落ちのびるのですが、この顛末は知らなかったでしょう。

音を重視する、という意味では、室町幕府の六代将軍の話も有名ですね。

天台宗の青蓮院義円は還俗して将軍として迎えられたとき、名を「義宣、よしのぶ」としました。すると、武家伝奏の家柄だった広橋宣光(権中納言)は「宣」の字を遠慮して、名を兼郷に改めました。ところが改めて考えると、義宣の音は「世をしのぶ」に通じる。そこで「義教」に変えました(徳川慶喜は、はて、この故事を知っていたのか否か)。