大名の借金エピソード
明和9年(1772)6月、庄内藩主酒井忠徳(ただあり)が初めてお国入りするため江戸を出発した。この年の2月に発生した目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)の大火により神田橋と下谷(したや)の藩邸が焼失したこともあって江戸で全ての旅費を調達することができず、半分は庄内から送金して道中の真ん中で受け取ることにした。
しかし、行列が福島まで到着しても送金が届かなかったため、資金が尽きて困り果てた出納の役人は有りのままを忠徳に報告した。それを聞いた忠徳は両眼に涙をうかべて「14万石の分限でありながら100里の旅費を賄えないとは、どうして藩屏(はんぺい)の職を奉ずることができようか」と嘆いた。
この送金の遅れは東風が吹きすさんで船が最上川を上がれなかったためで、幸いその日の暮に福島へ届いたため、行列は足止めされることなく予定通り庄内に着いた。庄内藩の公式記録に載るこのエピソードは、藩の財政難を物語るものではあるが、常に徳川への忠義を忘れない忠徳の心構えを讃えるという側面もあった。
盛岡藩主南部利幹(としもと)は享保7年(1722)に江戸へ参勤する道中、鬼怒(きぬ)川の出水により4日間足止めされたことで旅費が足りなくなり、道中で借金をして江戸へ着くことができた。しかし江戸の商人たちからの借金の返済に窮し、同年の大晦日には出入り商人20人余りが藩邸に押し掛けて支払いを督促した。翌元日になっても商人たちは藩邸に留まったため、藩士が苦しい藩の台所事情を説明して切腹するという事態になった。
藩の財政難が原因で切腹する者が出るとは由々しき事態である。このように借金返済を求める人々が江戸藩邸や藩主の滞在先に集まるという行為は、藩の面子にかかわることでもあるため商人たちにとって効果的な手段だと考えられ、様々な藩で似たような事例があった。また、十分な道中経費を持たずに参勤交代の行列が出発し、川留めなどによる旅費の超過や資金調達の難航により、旅費が足りずに行列が先へ進めないという事例もあった。
こうしてみると、参勤交代と藩財政の窮乏化は密接に関係しているように思える。