江戸に集まる富
大名屋敷で暮らしていたのは、大名とその家族だけではない。一つの大名家につき、数百から数千人の家臣が大名屋敷で働いていた。江戸で勤務する家臣は大きく分けて2種類あり、国元から単身赴任でやってくる勤番と、家族とともに常時江戸で暮らす定府があった。江戸の武家人口は約60万人と推定されるが、その多くは大名と家臣およびその家族である。
参勤交代の制度化により多数の大名屋敷が建てられたことで、江戸の武家人口は飛躍的に増加した。彼らは消費者であったため、江戸は日本最大の消費地となり、その需要に対応するため、全国的な流通網が整備されていった。
参勤交代制度が生まれたことで、各藩の財政支出のうち、半分以上が江戸での経費にあてられたと言われている。西尾藩主三浦家(2万3000石)の宝暦4年(1754)の年間支出額は、江戸で米1358石余・金5342両(5億1283万円)余、国元で米855石余・金2615両(2億5104万円)余であった。単純に米1石=金1両で計算すれば、65.9%が江戸で費やされていたことになる。
なお、三浦家の江戸での支出は、項目ごとに担当者が決められており、御台所・下屋敷居住の藩主家族・普請・藩邸全体に関するものの四つに大きく分けられていた。これにより、江戸でのサイフが少なくとも四つあったことが理解できる。
松江藩の『出入捷覧』(※)では、文化元年(1804)の「江戸入用」は36%(金5万633両〔48億6077万円〕)であったが、「俸禄」を除けば62.6%となる。他の年も見ると、「俸禄」も含めた数字では平均で3割に満たないが、「俸禄」を除けば過半数を超えていた。「俸禄」には江戸で勤務する藩士の給与も含まれているが、それを考慮しても松江藩は「江戸入用」の割合が少ない部類に入ると思われる。
津山藩では、天明4年(1784)から寛政2年(1790)までの江戸における支出を項目別に調査した記録が残っており、合計は金6000両(5億7600万円)ほどであった。藩主が江戸参府中の年の方がやや支出額が多いものの、大きな違いは見られなかった。
(※)9月から翌年8月までを1年度として、松江藩の明和4年(1767)から天保11年(1840)に至る74年分の財政収支をまとめた記録