江戸時代の参勤交代は、幕府が大名の力を削ぐための施策であったなどとされ、マイナスのイメージが強いものでした。しかし、豊橋市美術博物館学芸員の久住祐一郎さんは、「近年大きくその定説が変わった」と語ります。そこで今回は、久住さんの著書『参勤交代のお勘定-江戸時代のヒトとカネを動かしたシステム』から一部を抜粋し、近年研究が進んだ参勤交代の実態を明らかにしていきます。
参勤交代が育てた江戸
江戸という都市は、徳川家康が天正18年(1590)に入府して以降、江戸城を中心に発展・拡大を続け、「八百八町」と言われる多くの町が生まれ、人口100万人を超える巨大都市になった。
江戸の範囲はどこまでかといえば、現在の東京23区よりもずっと狭く、東は亀戸、西は新宿・代々木、南は品川、北は千住・板橋あたりまでとされていた。しかし、この範囲には田園風景が広がる農村部も含まれており、市街地に限れば面積は約70平方キロメートルであった。
江戸の市街地の土地利用区分を見ると、約7割を武家地が占め、残る3割を町人地と寺社地が半分ずつ分け合っていた。そして、武家地の約55%は大名屋敷であった。江戸の市街地全体で見ても、大名屋敷の割合は約35%を占めていた。
戦国時代に登場した城下町は、戦国大名が居城の周囲に家臣を居住させ、行政都市・商業都市としての機能も持たせた都市である。江戸城の周囲に全国各地の大名屋敷を配置した江戸の街は、日本史上最も大きな城下町であった。
家康の江戸入府当初は、江戸城周辺に徳川譜代家臣の屋敷地が割り振られたほか、申請があった大名に対しその都度屋敷地を与えていた。江戸の街づくりは、山の手に武家地、下町に町人地を置くという基本方針のもと、江戸城を中心にうずまき状に堀を延ばしながら、低湿地を埋め立てて市街地を拡大していった。こうした江戸の拡大工事は各地の大名に割り当てられた「手伝普請」によって進められた。