江戸へ向かった吉田藩士・岩上六蔵

国元で暮らしている藩士が定府を命じられた場合は、単身赴任ではなく家族をともなっての転勤となった。三河吉田藩の場合は生活拠点がある場所を「勝手」と呼び、地名を付けて「江戸勝手」「吉田勝手」と称していた。役職の交代などにともない勝手が変更されることが多かったが、江戸で処罰を受けた藩士がペナルティとして吉田勝手を命じられることもあった。

安政5年(1858)10月、三河吉田藩主松平信古が吉田から江戸へ参勤した。翌年2月に信古は幕府の寺社奉行に任命され、さらに大坂城代へ昇進したため、結果的にこの安政5年の江戸参府は吉田藩最後の参勤交代になった。

この参勤交代がおこなわれて間もなく、用役という役職に就いていた吉田藩士岩上六蔵(いわかみろくぞう)が江戸勝手を命じられ、江戸藩邸内の長屋へ引っ越すことになった。翌年2月、24歳の六蔵は80歳の祖母登波子(とはこ)をともなって江戸へ向かった。

この岩上登波子という女性は、28歳で未亡人となった後に国学者の本居大平(おおひら)に入門し、幼い子を育てながら学問や和歌に情熱を燃やした。当時の女性としては珍しく、『伊勢物語』や『古今和歌集』などを研究した書籍を出版しており、多くの門人を抱える女流歌人として活躍していた。そのため、江戸出発前には登波子のために盛大な送別会が開かれた。江戸に着いた登波子は、国元の門人たちに宛てて書状を出している。その中から登波子が奮闘している様子を紹介しよう。