登波子おばあさんの奮闘

江戸に着いた藩士は3日の休日を与えられるのが普通であったが、2月10日に六蔵が江戸に着いて間もなく藩主信古が江戸城に呼び出されて寺社奉行に任命されたため、到着の翌日から出勤してしばらく帰ってこなかった。上野寛永寺に近い谷中の吉田藩下屋敷内にある仮長屋に入った登波子は、孫の留守中に挨拶にやってくる親類や隣近所の人々への対応に忙殺された。

岩上家は4月になってようやく正式に長屋を与えられた。広さは2間×6間で2階はなかった。部屋は12畳と10畳の2部屋だったが、六蔵の部屋も必要ということで4畳を仕切った。また、物置がなかったため所々に棚をつるして物を押し込んだ。

こうした簡易な工事で銀8匁ほどを使い、様々な道具を買いそろえるために銀20匁(3万2000円)余りを費やした。物干棹(ものほしざお)1本が銭250文(3800円)、粗末な竹の柄杓が銭24文(400円)もするとわざわざ書状に値段を記していることから、吉田に比べて江戸はかなり物価高だったようである。

六蔵は朝五つ時(午前8時頃)に谷中から約5キロメートル離れた呉服橋門内の上屋敷へ出勤し、翌日の正午頃に帰宅するということを1日おきに繰り返した。

食事は弁当を持参しなければならず、登波子は1日おきに3食分の弁当を用意して持たせた。弁当のおかずは煮しめがメインであったが、夏場は翌朝になると傷んでしまうため納豆を持たせた。この納豆は、国元の前芝村から時々送られてきたもので、お裾分けした周囲からも評判が良かったようである。

また、前芝村からは赤味噌も送られてきたが、遠江出身の登波子は「わたくしは赤味噌は好みではなく、白麹味噌が好きなのです」と、遠慮なく好みを伝えている。ちなみに、六蔵が赤味噌の方が好きだったのはせめてもの救いである。

こうして80歳という当時ではかなりの高齢でありながら初めての江戸暮らしを体験することになった登波子は、多忙な生活ではあるが出世した孫の世話を焼くことの喜びをかみしめていたように感じられる。

また、すでに女流歌人として名が知られていた登波子は、藩主の奥方の所望により和歌を書いた短冊を献上し、奥方に拝謁するという栄誉にあずかった。この出来事がきっかけとなり、奥方から歌集の出版をすすめられた登波子は、後年『登波子詠草』という3巻からなる自身の歌集を出版した。岩上六蔵が江戸へ転勤になったことで、一人の女流歌人の業績が後世に伝わることになったのである。