1994年10月に新生「オテル・ドゥ・ミクニ」がオープン
「オテル・ドゥ・ミクニ」の改築工事は1994年の夏にスタートした。
元の店舗だった個人宅とロシア正教会の建物をつないで、席数をそれまでの30席から80席へと増やした。調理場も広くし、2階にあったウェイティングバーを1階に移動、さらにウェディングパーティーができるバンケットルームも新設した。
かくして10月に新生「オテル・ドゥ・ミクニ」はオープンする。
1人でもたくさんのお客さんに来てもらうために、オープン前から僕が必死で取り組んだのは、マスコミの力を借りて店の宣伝をすることだった。
マスコミの力はそれまでの経験で身に染みてわかっていた。
店をもってすぐに出版した『皿の上に、僕がある。』によって、どれだけの人が僕の料理と僕という人間に興味をもってくれるようになったか。この本からヒントを得て企画されたと思われるテレビのドキュメンタリー番組「若き天才シェフ 三國清三」が、僕の知名度をいかに高めてくれたか。そして海外でのミクニ・フェアの大成功を伝えるテレビのニュースや雑誌の記事が、日本での僕への激しいバッシング(※1)を沈静化するのに、どれほど役に立ったか。
さらに言えば、帰国してすぐ「ビストロ・サカナザ(※2)」でめちゃくちゃとんがったことをやり始めた僕のことを、おもしろがって常連となり、応援し続けてくれた人の多くはマスコミ関係者だった。その後僕が自分の店をもてたのも、「サカナザ」での人間関係があってこそのことだ。
※1…三國さんは、それまでフランス料理では使われてこなかった日本の食材を使ってオリジナルのフランス料理を作っていたことから、日本の料理評論家たちに批判されていた時期があった。
※2…三國さんがかつてシェフとして働いていた東京・市ヶ谷の店。