「京都の女の本当の性を知らない」

そんな私を「おもしろくない」と思っている人もいるのは、デビュー当初から知っていた。

ある男性の物書きが、私の小説に対して「京都の女の本当の性を知らない」と書いているのを目にしたときは、笑ってしまった。なんだろう、京都の女の本当の性って。みんな京都の女は同じだと思っているのか。しかも自分は京都の女の本当の性を知っていると言わんばかりの傲慢さが、おかしかった。

別の京都出身男性の先輩物書きは、私がデビューして最初に書いた短編について「この場所に舞妓さんがいるわけがない。あなたは舞妓さんのことをわかってない」とわざわざメールしてきたが、その現場は私自身が実際に見たものであって、証拠写真もあったので送ると、返事は無かった。

京都に生まれ育った同世代の作家志望の女性には、面識もやり取りしたこともないのに、ひどく嫌われて、彼女は私のことを、どうやら悪口のつもりで「京都人じゃないくせに、京都人ぶっている」と出版関係者に言っていたらしい。

京都人ぶっているつもりはない。そもそも兵庫県出身で、京都に来たのは大学入学時だというのはプロフィールにも書いている。

私はいわゆる、「よそさん」だ。京都人になったつもりもない。「よそさん」として京都を見て、京都を書いていることは、隠してもいない。

他にも「自分のほうが京都に詳しい」「京都をわかっていない」「京都人じゃないくせに」とマウントをとりたがる人は、何人もいた。そして暗に、あるいは露骨に、私が「京都の人間じゃない」ことを持ち出してくる。

これは何なんだろうと、考えた。

京都以外で、こんな言われ方をすることはあるのだろうか。たとえば東京を描く作家が「東京人じゃないくせに」なんて言われているのは、知らない。

私が官能でデビューした作家であることそのものが、おもしろくない人もいたにせよ、「京都」という街の特殊性を感じる出来事でもあった。

平安神宮の大鳥居