まだまだ京都は非日常の特別な街
京都は特別な場所なのだと、みんな、うっすら思っている。
そして京都を好きな人は、多い。神社仏閣が多く、舞妓さんがいて、景観を守るために高い建物がない「古都」京都に。
春や秋には雑誌は京都特集だらけだ。「京都が好きで、京都に憧れる」人は、たくさんいるのを京都に住んでいて、肌身に感じる。
そもそも「京女」とはいうのはメディアにもたびたび登場するが、「大阪女」「滋賀女」「兵庫女」「和歌山女」「奈良女」などの言葉を、あまり耳にしたことはない。
私自身も小説に、はんなりした「京ことば」を発して和服を身に着け、どこかいけずで魅力的な「京女」を登場させることが多いのは、「京女」に幻想を抱く人たちが確かに存在するのを体感しているからだ。
それも京都という街の独自性で、「京都に住み、京都を描く」作家の私は、おかげさまでその独自性に、じゅうぶん恩恵を受けている。
京都は、言い方はよくないかもしれないが「商売上手」だ。人を呼び込む力に長けている。
お土産物や、アパレル、食、建物など、ありとあらゆる「古いもの」を、新しい技術や流行と融合させ魅力的に商品化するというセンスは日本一だろう。
古いものをつぶしたり無くしたり否定せず、かといって頑なにそのまま守り新しいものを排除するようなことは、しない。
そういった意味では、寛容で多様性があり柔軟だ。
「京都人」というと「いけず」で排他的なニュアンスで語られることもあるけれど、その対極ではないかと思って眺めている。
そもそもが京都は大学の数が多く、外国人や府外から来た人間がたくさん住んでいる町だ。
「よそさん」である私も、居心地の悪さを感じたことは、一度もない。
私を「京都人じゃないくせに」と非難する人たちに対して思うのは、「京都人じゃない、よそさんだから書けるもの」があるんだよということだ。
だいぶ前だが、京都に生まれ育って今も京都に住んでいる作家に「なんで京都を舞台に書かないのですか?」」と聞いたら、「ずっと京都にいるから、京都に対して特別感がないんです。だから敢えて書こうと思わない」と返され、私と逆だなと思った。
私にとって、まだまだ京都は、非日常の特別な街だ。歩いていると、当たり前のように、国宝や重要文化財がごろごろと存在し、古い風習がそのまま残り、夜に下鴨神社や京都御苑を歩いていると、タイムスリップしたような錯覚を起こす。
以前、北海道のある街の高校の修学旅行生をガイドした際に、いちいち反応して喜んでいてくれたので嬉しくなったが、先生によると「明治以降に開拓された街で育っているから、京都の古い建物が、この子たちにとってぜんぶ新鮮なんですよ」とのことだった。
京都の人が、当たり前だと普段眺めているものが、そうじゃないのだと、改めて思った経験だった。