多くの日本人がソ連のエージェントとして活動した
ラストボロフが重宝したエージェントの中には、コードネーム「フジカケ」と呼称される元大蔵官僚がいる。「フジカケ」の正体は、池田勇人元首相の後援会である宏池会の事務局長も務めた田村敏雄である。また、エージェントの中には、当時外務省アジア局第二課勤務であった志位正二ら多くの日本人が存在する。
志位正二は、元日本陸軍少佐で、ソ連のエージェントとなった動機について、稲村公望『詳説「ラストボロフ事件」』(2023年、彩流社)の中で、次のように記されている。
志位は、1951年9月に締結されたサンフランシスコ講話条約を屈辱的なものと捉え、アメリカが掲げる「デモクラシー」という理念が他国を犠牲にする自己中心的なものであると考えていた。このような状況下で押し付けられた講和条約が再び日本を破局へ導く可能性があると危機感を抱き、ソ連や中国共産党と協力し、アメリカの影響力を排除することで日本の未来を守るべきだと考えるようになった。(筆者要約)
更に同著によると、ソ連と接触していた志位は、ある日、自宅近くで肩を叩かれ振り返ると、見知らぬ男から「ソヴェルシーチェ、サモウピーストヴォ(自殺しろ)」と脅迫された。この経験により、命の危険を強く意識した志位は、ソ連との関係を断ち逃亡するか、捜査当局に保護を求めるかの選択を迫られた末、警視庁に自首する決断を下したという。
ラストボロフの証言によれば、日本でソ連のエージェントとして活動するよう誓約させられた日本人(誓約引揚者)が500人以上、その他の潜在的なエージェントが8000人以上いたとされている。
いかにソ連スパイ網が日本に浸潤していたかがわかるだろう。