古代社会では物々交換が主流
歴史のクイズではよく、「日本最古のお金は何?」といった問題が出されます。以前は「708年(飛鳥時代末期)に作られた和同開珎(わどうかいちん)」が正解とされてきましたが、1990年代に藤原京や飛鳥京の跡から「富本銭(ふほんせん)」というものが大量に出土。683年頃に作られたと推定され、和同開珎より確実に古いため、近年は「日本最古の硬貨は富本銭」と教科書に書いてあるようです。
しかし富本銭は、おまじないや呪符的な使われ方をしていただけで、実際に貨幣として流通していたという証拠はまだ見つかっていません。いわば「お宝」として所蔵され、世の中に出回っていなかったと考えられます。
富本銭の後にも、和同開珎に始まる「皇朝十二銭」という12種類の銅銭が鋳造されましたが、これらはほとんど流通しませんでした。当時の日本の銅の産出量から考えると、それほど多く鋳造されたとは考えにくい。せいぜい畿内の一部で使われていただけだったはずです。
平安時代になっても、商取引としては物々交換が一般的。あるいは物品貨幣といって、お金の代わりに米や布、塩などを使った取引が日本経済のリアルな姿だったと考えられます。
それが大きく動いたのは、平清盛が推進した日宋貿易がきっかけでした。船が安定して航行するには、「バラスト」という重しを船底に積む必要がありますが、日本から中国へ向かう時は「材木」、中国から日本に来る時には「宋銭(そうせん)」という銅銭が使われました。これが大量に市場に出回ることで、日本でも貨幣経済が活性化することになったのです。
13世紀半ばに土地の取引をした証文を見ると、それまで「米」で売り買いされていたのが、「銭」に変わっています。鎌倉時代には中国から流入する宋銭の量がさらに増え、日本のすみずみまで貨幣経済が浸透したことがわかります。

