たまたま、食堂が混んでいて相席になり、彼は向かいの席に座るなり、ノートを開いて何かを書き出した。その姿がとても自然で、「自分はいつもここでこうしています」と言わんばかりの安心感があった。

 わたしは彼が開いたノートをそれとなく確認し、

「何を書いているの?」

 と聞かずにおれなかった。

 彼は自分の目の前に見ず知らずの女性──わたしである──が座っていることに、「いま気づいた」というふうに顔を上げ、その数秒で彼なりの審査に合格したらしい。

「小説です」

 彼はボーダー社のジェルインクペンをノートの上にまっすぐ置いた。

(ふうん。小説か──)

「そのアクロスティックのノートはどこで買ったもの?」

 すかさず、そう訊いてみたら、

「どうして分かったんですか?」

 彼は姿勢を正してノートの上で手を組んだ。

「わたし、文房具屋だから」

「そうなんですか」

「アクロスティックのA30かな? 日本製のスタンダードなノートが三冊は買える値段でしょう? どうして、そんな高いノートを?」

「一行一行、丁寧に書きたいからです。いいノートを使っていると、無駄なことは書けないんで」

「なるほどね」

(今度、お客さまに高価なノートをお勧めするときに、そう宣伝してみよう)

「なんていう文房具屋さんですか?」

「〈南雲文具店〉。踏切の前だから、すぐそこよ。もし、そのノートを使いきったら、うちにも在庫があるから、ぜひ、買いに来て」

「分かりました。覚えておきます」

「で、どんな小説を書いているの?」

「え? それは秘密ですよ」

 彼は宝物を囲い込むように急いでノートを閉じた。小説を書いていることは教えてくれたけれど、さすがに、内容を教えるか否かの審査には通らなかったらしい。

「小説家になりたいわけね?」

「いえ、小説を書いているからといって、小説家になりたいとは限りません」

 彼は黒ぶちの眼鏡をおもむろにはずし、胸ポケットからクリーナーを出してきて、レンズの汚れを拭きとった。

 きれいな目をしていた。

 生意気なところも、きれいな目も、どことなく屈託を抱えている感じも、すべて、アマギ君に似ている。

 早弁を競い合ったアマギ君だ。いま、どこでどうしているだろう?

「でも、やっぱり小説家にはなりたいです」

 (なぁんだ。生意気だけじゃなくて、素直なところもあるじゃない──)