若き日の秀吉の出稼ぎ
そして、幼少期の秀長が何をしていたかもまったくわからないので、こちらも考察するしかないのですが、『太閤素生記』では、松下家での武家奉公を辞め、中村へ帰ってきた秀吉に、旧友の一若という人物が、
「今までどこに行ってたんだ? おっかさんが悲しんでるぞ。急いで会いに行ってやれ!」
と声を掛けるというドラマチックな一幕があります。
これが本当なら、母のなかは中村で秀吉の帰りをずっと待っていたことになります。
あくまで想像ですが、秀吉は弟の秀長がいたからこそ、家をほっぽりだして気ままな(?)放浪生活をすることができたのではないでしょうか。
若き日の秀吉の出稼ぎについては『太閤記』だけでなく、海外の史料にも記述があります。
慶長の役(慶長2年・1597)で若い捕虜となって日本に連れてこられた朝鮮の儒者、姜こう(「こう」は、さんずいに亢)が書いた『看羊録』には若い頃の秀吉は農家に雇われて生計を立てており、のちに一念発起して信長に仕えたのだと書かれています。彼は捕虜として抑留されている間に日本人の僧侶や文化人(藤原惺窩)と交流して、日本の情報を得ていました。
また、イエズス会士による報告書である『イエズス会日本年報』でも「農家に雇われていた(のちに商人に転職)」と書かれています。
