弟・秀長がいたからこそ

『看羊録』も『日本年報』も、それぞれ自国へ日本の情報を伝えるために書かれた記録であり、お互いを参照することはないはずですから、当時の外国人たちが知ることができた情報、つまり多くの日本人の共通認識として、青年期の秀吉は家を出て働いていたと思われていたわけです。

勝手な憶測ですが、いくら秀吉でも手紙もろくに送れない、ましてや電話もメールもない時代に母親と姉妹だけを村に残して家を出ていくというのは考えにくい。

(写真提供:Photo AC)

そこに頼れる弟・秀長がいたからこそ、弟よ、おっかあのことは任せた!と無責任に家を飛び出したのではないかと思うのです。

のちの秀吉と秀長の関係を見ていても、似たような状況がよくあります。